日本橋中洲から一軒のこらず姿を消した料亭だが、清洲橋通りの首都高速寄りにある金刀比羅宮の小さな社を囲う玉垣には、数多の料亭の名が連なり往時を偲ばせる。喜可久、冨久稲、三田、新福井、中村、ふく田、弥生。境内の碑に刻まれた昭和29年12月吉日の文字に、江戸ではない東京の昔日を見る。

 昭和30年代にはじまる隅田川の護岸工事は、河畔に親しんだ人々の暮らしを変えた。東京都が昭和41年度の高潮対策事業として勝鬨橋までの隅田川右岸での防潮堤建設に着手すると、中洲よりも隅田川の上流にあって、やはり料亭街を形成していた柳橋の料亭組合は「情緒を壊す」と、都に対して補償要求をおこなっている(真泉光隆著『年表 隅田川』日本図書刊行会/近代文藝社 1992)。中洲についての記載はなくわからないが、料亭街としての事情はきっとおなじだろう。

 隅田川テラスとして再整備された現在の河畔を見下ろす堤防に立つと、そのさらに内側に防潮堤が築かれる以前の高さと思われる護岸が残されているところがある。中洲公園に面して建つマンションの、いまは駐輪場のそれとしか見えない楕円にめぐらされた石造りの塀は、島だった中洲の上流側先端の輪郭の跡にも見える。
 直立型の俗にかみそり堤防といわれた防潮堤が当時、どれだけの圧迫感を河畔の住民にあたえたのか。人を水ぎわから鋭利に切り離す〝かみそり〟の形容以外に直に知ることは難しいが、おなじ隅田川を望む下町を舞台にした昭和61年の山田太一作ドラマ『シャツの店』で鶴田浩二演じる主人公のシャツ職人がはき捨てた、その心境をうかがわせる科白を思い出す。

《この道路は、なんだ、この柱はなんだ、あの堤防はなんだ!
コンクリートばっかりじゃねえか》

 水ぎわの景観を失い、そして昭和47年、中洲は箱崎川の埋め立てで地つづきとなった。中洲には昭和53年から55年ごろ建てられた大型マンションが多く、これはその時期廃業した料亭の広い敷地が、次々とマンションに建て替えられていった編年の記録でもある。

 男橋も女橋も、北原白秋が『大川風景』で活写した紅いあかりの中洲は幻のごとく消えたが、区画整理や町の改廃が幾度となく繰り返されてなお、〝しま〟を意味する洲の字とともに、中洲の地名は残る。ある晴れた日、江東区常盤の芭蕉記念館の庭園にある見晴台から、対岸の中洲方面を眺めて見た。10数階建のマンションが隙間なく壁のように並ぶ下を、隅田川がゆっくりと流れる。初冬の穏やかな陽射しを受け、水面は時の結晶をちりばめたようにきらきらと光っている。

※ 本稿は月刊『日本橋』の連載「新お徒歩日本橋繁盛記」2015年11月号の内容に加筆修正を加えたものです。