• 日本橋中洲繁盛記
    Nihombashi-Nakasu, Lost paradise wrapping old days of Tokyo

 北原白秋の随筆『大川風景』に、こんな一節がある。

  夏は短夜、紅いあかりの中洲は男橋に女橋、その男橋の上に
ほうふつと意気な女の影が立つ。

 昭和2年の東京日日新聞夕刊に連載された「大東京繁昌記」のなかの一篇で、大川(隅田川)をくだる舟上風景を一幕の映画フイルムにおさめるように、関東大震災から4年後の復興東京の姿を活写する。翌年に開通する清洲橋は橋台と杭と足場組だけの架橋中で、優美な吊り橋の曲線をまだ宙に描いていないかわり、永代橋が南天ですでに〝新しい兜の弧線〟を見せている。水郷で知られる、柳川に生まれた北原白秋にとってこの大川風景は、失われた水の都、東京の原風景への追慕だろうか。

東京の昔日を封印する島

 日本橋から隅田川をはさんで向いの深川に住むようになって、10年になる。人形町や浜町あたりを方々歩いてまわると、川向こうの深川に帰るには隅田川大橋か清洲橋を渡ることになるが、菖蒲橋の地下歩道をくぐり出て、清洲橋にかかるまでの日本橋中洲の一帯には明治の中ごろから大正にかけて、新派劇をおもに上演した小劇場「真砂座」を中心にした歓楽街があった。そしてこの中洲という地が、じつに数奇な変遷を経た町であることを知ったのも最近のことだ。
 江戸中期、月見や舟遊びの納涼の名所と謳われた砂州が大川下流にあった。そこには町場がいちど造成されたのだが、幕府の命によりわずか20年足らずで、埋立地ごと取り崩されてしまう。その後明治19年に中洲河岸が築立するまで、およそ100年近くのあいだ人の住む島はなく、葦の原がある浅瀬のみだったというのだ。変遷を知る出来事を年表式に書き出すとつぎのようになる。

明和 8年

(1771)

砂州を埋め立て、新大橋の南方に浜町から地続きの土地が造成される。

安政元年

(1772)

大川中洲新地築立。

安永 4年

(1775)

酒亭茶店が増えて町場がととのい、三股富永町となる。夏の納涼の賑わいは両国を凌ぐほどの繁華を極める。

寛政元年

(1789)

埋立地が取り払われ、葦の原の浅瀬にもどる。倹約令の取り締まりや治水問題が理由とされる。

慶応 4年

(1868)

江戸を東京と改称。

明治19年

(1886)

再度の埋め立て、中洲河岸となる。

明治26年

(1893)

真砂座できる。

 真砂座が開座すると、周囲には割烹や待合が軒を連ねるようになる。小劇場ながらその集客力はかなりのものだったようだ。しかし大正にはいって観客数は次第に減少し、立地の不便さ、時代劇映画の隆盛も影響し、大正6年には廃業となった。
 島だった周囲をたどり、いまゆっくり歩いて一周しても15分とはかからない。忽然と消えた盛り場の跡といえば大袈裟かもしれないけれど、昭和の高度成長期、中洲の河畔には料亭がびっしりと建ち並び、三股富永町の納涼の賑わいや真砂座の歓楽街と肩をならべるほどの繁盛が、ふたたびこの町を活気づける。高潮対策として整備がはじまる護岸工事の完成をみるまで、中洲は隅田川の川面にいまよりもずっと近く、どこの料亭も河畔に舟遊びの桟橋を設けていた。芸妓を乗せた人力車が通る。舟で新内流しが川から来る。水ぎわにたなびく三味の音色、楽園の島がそこにあった。

昭和30年代の日本橋中洲

昭和30年代の日本橋中洲。おもに人文社「東京都全住宅案内図帳」昭和33年版をもとに作図しているが、記載の割烹・料亭名などには実在時期に数年の前後がある。