• 芝白金三光町あたり
    A-Un, Light and shadow at Shirokane sanko-Cho

《芝白金三光町あたり。豆腐屋のラッパ。背中に赤ン坊をくくりつけて、子守をしている子供たち。》

 少年たちが嬌声を発し、ベーゴマ遊びに駆けだしていく。物売りの声も聞こえてくる。向田邦子のドラマ『あ・うん』の放送第1回(1980)は、ドラマの主人公、水田仙吉(フランキー堺)家族が地方転勤先から長旅の汽車に乗り、3年ぶりに東京へと帰ってきた場面で始まる。生垣のある「門構えの家」は、仙吉の親友で軍需工場を経営する門倉修造(杉浦直樹)が見つけておいた借家で、芝白金三光町にある。

  たみ(仙吉の妻:吉村実子)「30円にしちゃいいうちじゃないの」
  仙吉「そりゃ奴が見つけたんだ間違いないよ。おい門倉!」

 薪を火吹き竹で吹いて沸かす風呂。台所に米ビツ、へっつい、、、、に釜。昭和初期の、平凡な一庶民の生活感を瑞々しく描写した『あ・うん』の世界は、ナレーションもかねた仙吉の娘さと子(岸本加世子)の語り口と、哀調をおびたバイオリン曲の旋律とともにいまなお色褪せずにいる。

 芝區白金三光町は「町域廣大にして本(=芝)區各町のうち最も廣く(芝區誌)」、現在の白金2〜6丁目全域と白金台の一部にかけてあった町だ。いまでこそ流行の店々がファッション誌を賑わすこの周辺は『あ・うん』の舞台になった昭和10年ごろ、まだ東京の片隅に拓けた新興の、平凡な町のひとつにすぎなかったのだろう。明治期には「鬱蒼とした森と浅茅が茂る沼地しかない」東京郊外の辺鄙な場所、わずかに人家がある程度の「幽寂な世外境(前掲書)」だったとある。
 町工場や商店の低い家並が綿々とひろがる現在の白金は、山の手にあって「崖下の下町」的な、江戸ではない東京の情緒を残している。どこか都心に置き去りにされた〝くぼみ〟のようなところがあって、それでいて恵比寿や六本木、渋谷にも近く、広尾、白金台といった都内きっての高級志向な町にはさまれていながら、庶民的で実に暮らしやすいところだ。向田邦子はなぜ、この『あ・うん』の舞台を芝白金三光町あたりとしたのか。それを知る手だてはなく、翌年放送された『続 あ・うん』が、作者の生前最後のテレビドラマとなった。

四の橋商店街

 白金三光町には、昭和13年に約2万人の人が暮らしていたという統計がある。最近のほぼ同じ地域の居住人口と比べてみるとおよそ2倍で、一軒の家に数世代が住み、商店や工場の住み込みも多かった当時の住宅事情を考えれば、この町は『あ・うん』に描かれた時代、いまよりもっと密集した濃密な町の姿をみせていたことが想像できる。

 渋谷の通称キャットストリート下の暗渠から、明治通り沿いに流れ出た渋谷川が港区との境界の天現寺橋で古川と名前を変えると、下流に麻布十番の一の橋がある。そこからふたたび上流に戻って首都高速の高架下には順番に二の橋、三の橋があり、さらに古川橋、新古川橋と続いたあと、四の橋が架かっている。続きは五の橋まであるが、六の橋というのは聞かない。
 明治通りから四の橋を渡った橋詰広場の先にあるのが四の橋商店街で、狭い道の両側には50ほどの商店が軒を連ねる。軍需景気に沸いた『あ・うん』の昭和10年ごろには明治通りに市電も走っていて松竹の映画館もあり、周辺の町工場の工場主やおかみさん、住み込みの職工たちに、くわえて高台のお屋敷からの買物客で賑わう、界隈きっての繁華街だった。いまの約3倍にあたる150軒を越す商店がならび、年の瀬ともなれば狭い道に人が動けなくなるほどの混雑ぶりだったという、幻の盛り場だ。