昭和20年5月、白金三光町は東京大空襲の戦火にみまわれ、四の橋商店街の繁盛は跡形なく焼失してしまう。戦後の復興期にはいってから四の橋に戻って商売を再開する店は少なく、かつての賑わいを取り戻すことはなかったようだ。
 いま、買い物道路(歩行者天国)となる夕方4時を過ぎたころに夢の跡となった盛り場を歩くと、低い家並の続く空に商店会の流す特売のアナウンスと、その威勢の良さと裏腹な気のぬけたような有線の歌声が聞こえ、商店主たちが通りをはさんで交わすのんびりとした会話がそこにまじりあう。地下鉄の白金高輪駅が出来て以降は商店街にも高層マンションが建つようになり、フレンチの名店や、もつ煮込みが旨い人気店もできて、暮らしの中心にありながらもかつての盛り場とは別の姿を見せはじめた。ただ忽然とあるだけの商店街に、町の人々と暮らしの変遷が幾層にもおり重なっている。

境界線の町

 向田邦子のドラマ『あ・うん』で性格も暮らしぶりも正反対に描かれている、主人公の水田仙吉と親友の門倉修造は、仙吉の妻、たみをはさんで、境界線のこちらとむこうに〝やじろべえ〟のように揺れながら危うさを秘めた均衡をとりあっている。白金三光町にも町を北と南とをわかつように1本のバス通りが走っていて、境界線をはさんで北の古川の流れに沿った町工場地帯と、南の白金台に続く坂の町の対比は通りひとつを隔て、別の印象で隣りあう。

 バス通り北の古川沿いには、白金3丁目を中心に鉄工所、板金、塗装、ネジ加工などの工場、近年急速に姿を消している製版所や軽印刷所が多く集まっている。白金5丁目の慶應幼稚舎のそばには椎橋合金鋳造所という、『あ・うん』で門倉が経営する設定になっていた鋳物工場が1軒あった。都内でも2、3カ所を数えるだけとなっていたひとつと聞いていたが、現在はマンションに建て替えられている。
 この一帯には銭湯も多く、平成10(1998)年当時には港区内にあった13軒の銭湯のうち、4軒が白金のバス通り北で営業していた。入母屋造りが立派な黒湯の鉱泉金春湯、路地裏にひっそりとあった日の出湯、マンション地階の玉菊湯、立派な破風を構えていた三越湯。湯あがりの肌を夜風にさらして歩く、風呂がえりの人の姿を見かけるのは都心で貴重な眺めになった。

 バス通りを渡って南の白金台の高台へ至る一帯は、旧くは武家地として、明治以降も旧華族や実業家が住み、軍需景気で財を成した工場主や、大佛次郎などの名士も屋敷を構えた邸宅街だ。三光坂、蜀江しょっこう坂、明治坂といった名のつく坂や、名もない坂がバス通りから幾すじも伸びて、周辺には聖心女学院や東大医科学研究所の広い敷地に緑も多い。
 蜀江坂をのぼると、紅葉が美しいという中国の蜀江(四川省の揚子江上流の一部)になぞらえ蜀江台と呼ばれた高台からは、芝浦の海を見おろし遠く両国の花火が見えたというが、いまは海が望めないかわり、視界が開くと東京タワーや赤坂周辺のビル街が一望できる。

 明治坂の細く急な道をのぼる途中の、階段状に広く駐車場になった場所はナザレ修女会の跡といい、ところどころに昔の塀か土台の跡のような段差が見られる。続きの高台に建つ白い大きな屋敷は某大手不動産デベロッパーの寮になっているが、もとは葉山の加地別荘とおなじ遠藤新の設計による旧加地邸ということで、取り壊しになるまえにお願いして、立派な門扉をくぐり内部を見せてもらったことがある。リビングの大きなマントルピースには和洋折衷の文様をあしらった見事なレリーフが刻まれていたが、葉山の加地別荘とは違い、それ以外にほとんど内装の原型をとどめていないのが残念だった。

 明治24(1891)年に東京市に編入された白金三光町の三光は、蛍の名所であるために呼ばれていた名光、東名光、西名光の白金村のあざの名に由来するという(芝區誌)。明治の地図を見ると、この界隈には古川だけではなく玉川上水の支流をはじめちいさな川の流れが網目状に走っていて、水辺を飛んでいた蛍からすれば現在の白金は、隔世の感などという言葉であらわしきれない驚きだろう。
 白金バス通りから旧加地邸下をプラチナ通りに抜ける斜めの道、三越湯の脇から古川へと抜ける曲がりくねった道などは往時の川筋跡にできた道で、地層の重なりに似た100年の堆積のうえに日常があることを知らされる。