三越湯周辺のバス通り沿いは「三光豊沢商店街」といい、北里研究所の正門前あたりから、恵比寿三丁目交差点までの両側に木造瓦屋根や銅板張りの二連三連の長屋が、ビルの林に四方を追いたてられるようにして、ところどころ連なっている。
通りには休業した店や空き地も多くビルへの建て替えが続くなか、だんご屋、豆腐屋、履物屋、酒屋、本屋、青果店などが軒を連ねる。タイル貼りで畳屋らしからぬモダンな外観の清水畳店や、その隣の木造瓦屋根の明治牛乳雷神山販売所、休店中の軽食喫茶三光ホールの表に貼り出されたままのメニュー書きを見ていると、気にとめて立ちどまる通行人もなく、埃をかぶって抜け殻のように取り残された町の姿に『あ・うん』の昭和10年ごろの往来にあったであろう賑わいが、二重映しにかさなっては想像の幻となって消えていく。
三越湯の向かいの川越屋豆腐店から脇の細い路地を入ると、突き当たりに小さな石段があり、石段をのぼった上が雷神山と呼ばれているところだ。もとは雷神社の社があった場所で、現在は参道の桜並木だけが残されている。児童遊園になった敷地の中央には手押し式の井戸があって、夕方に桜の古木が並ぶかつての参道を歩くと崖下にあるジャム工場から、甘い苺のジャムの匂いが漂ってくることがある。
銭湯の三越湯が開業したのが昭和3年ごろと聞くから、東京の中心から見ればはずれの白金三光町で、さらに片隅にある三光豊沢商店街の界隈が町としての賑わいを形づくっていったのは大正末から昭和初年にかけてだろう。ここ数年は戦前に建てられた商店の跡に、外観や内装をそのまま活かしたあたらしい店が近辺に増えはじめた。ちいさな文具店だった銅板張りの二連長屋が、内装をし直してデザイン事務所になったのを皮切りに、洗剤や風呂桶、ハタキ、クマデなどを売っていた荒物屋がレストランに、染物屋の建物はバーになった。
北里研究所に11階建の新病棟が完成して、ナザレ修女会跡地の周辺ではおおがかりな再開発がすすんでいる。それでも白金三光町は、向田邦子が『あ・うん』で描き遺そうとしたの時代の東京らしさを受け継ぐ、都心のちいさな〝くぼみ〟なのかもしれない。