• 森の茂る片隅で ─ 茂森橋
    Shigemori-bashi BRDG, 1929

 新緑の木場公園を休日に歩くと、人々の賑わいをつつみこむ森がすがすがしい晴天の空に映える。茂森橋は公園を横切る葛西橋通りをぬけた東側の先に架かる橋で、下を流れるのは大横川だ。最近は橋下から水面までの高さが非常に低いことでも知名度をあげている。
 橋の名は元禄時代からこの地にあった町名からとられているが、橋自体は昭和4年(1929)の架設で、葛西橋通りも関東大震災の復興計画であらたにできた計画道路だ。福住から砂町までを直線的に結ぶ道路は川との交わりが直角ではなく、石造りの親柱は上部が歪んだ六角形をしている。
 アーチ状のコンクリート橋台を両岸の川のなかに建て、そこに鋼製の桁橋を渡した構造は内務省の復興局が考案した復興橋梁特有の形式とされ、隅田川以東の深川地域には下路式のトラス橋が多く架けられたなかで、現存する数少ない例のひとつらしい。

《復興局では帝都復興をすみやかに行うため、道路側に橋台用地をとらなくてすむ新しい橋のタイプも考案している。橋台用地を買収していると、その交渉手続きだけで時間をとられるからだ。ここでは「ラーメン橋台橋」とよんでおく。》 (『東京の橋 ─ 水辺の都市景観』伊東孝著 / 鹿島出版会 1986)

親柱(左)とラーメン橋台上部の高欄。ラーメン構造というのは橋桁と橋脚を一体にした、ドイツ語由来の構造のこと。 S ≒ 1:30

 都心方面と物流センターなどがあつまる砂町、葛西エリアをつなぐ葛西橋通りには、昼夜とわず大型車両の通行が多い。荷重に耐えるだけの橋の強度はじゅうぶんにたもたれているのだろうけれど、親柱や高欄には石造りのところどころにひびがはいり、また昭和30年代に深刻だった地盤沈下の名残りからか、東側が下方向にすこし沈んで傾いたようにも見える。

 関東大震災後に復興局が当時かかえたさまざまな事態を打開すべく考案したのであろう「ラーメン橋台橋」は、隅田川以西では橋というより川そのものが埋め立てられ、ほとんどが失われてしまった。茂森橋の名を予言したかのように周囲は森が茂る公園地になったが、水をたたえた木場の貯木場が、芝生と木の生い茂る豊かな公園になったのはそう昔のはなしではない。南高橋のような土木遺産とはいかないまでも、ながく現存していてもらいたい橋だ。

東富橋

橋名板

茂森橋 / しげもりはし

所在地

江東区木場4丁目 ─ 東陽6丁目

河 川

大横川

構造形式

ラーメン橋台橋

架設年

昭和4年(1929)