- 深川鼠の化粧なおし ─ 東富橋
Toutomi-bashi BRDG, 1930
富岡の東にある橋だからこの名がついたのだろうか。八幡宮の鳥居を拝み、伝承にある「白羽の矢」がモチーフと思われる矢の意匠が橋灯や高欄などの随所にみられ威勢がいい。
東富橋は大横川に平久川がまじわる合流点下流に架かる震災復興橋梁のひとつで、永代通りの富岡2丁目側から琴平通りをのぼる坂が橋と一体となった町の景色をつくりだし、江東区が指定する都市景観重要建造物になっている。明治から昭和のはじめにかけてのこのあたりの旧町名には大横川北側に富岡門前東仲町、南側に深川平冨町といった名前があり、また富岡八幡より西の大横川門前河岸に対して、東は東門前河岸と呼ばれていたことも東に富と橋名がついた由来かもしれない。
2009年に橋の塗装工事がほどこされ、色名「深川鼠」を記したプレートが橋の南東側につけられた。橋梁本体の色をひきたたせる高欄の消炭色(いま風にいうと黒に近いマット調のグレーといったところか)が、コントラストを強め視覚をひきしめる。
この深川鼠は、染色家の染司よしおか五代目当主、吉岡幸雄氏の著書『日本の色辞典』(紫紅社 2000年刊)によると〝薄い浅葱色に鼠色がかかった明るい色〟とある。湊鼠の別名もあるそうだが、四十八茶百鼠といわれるなかでも色の名前に深川と具体的な地名がつくのは他にあまり例がない。吉岡氏は同書で江戸期の通人に思いを馳せ、幕府公認の遊郭吉原と深川を対比させて《衣装も化粧も淡白で、色より芸と意気地を張った、深川の「羽織芸者」の粋に通じる感性を、この色から受けたからであろうことは想像に難くない》と、日本の伝統色の再現をライフワークとされる著者ならではの鋭い考察をくわえている。
橋灯(左)と高欄。高欄のデザインが架設当初からのものなのかは不明。 S ≒ 1:30
東富橋の架設は昭和5年(1930)。関東大震災の復興事業であらたに設けられた橋で、当時の橋梁設計の第一人者であった増田淳の事務所が、東京市から受注して設計した橋のひとつという。鋼材にリベットを細かく打ち込んで接合した補強板の配置や、トラス構造の三角に組まれたリズム感の連続に、低予算のなかで機能性や耐久性が最重要視されたであろう制約のもと、構造美を精一杯に主張したすがすがしさを感じずにいられない。
川の合流点を近くにみる橋の上からの眺めは、とくに桜の満開のころ絶景となる。牡丹3丁目側の橋のたもとには、松平定信が隠居後に入手したという「深川海荘跡」の案内板が設置されている。
橋名板
東富橋 / とうとみはし
所在地
江東区富岡2丁目 ─ 牡丹3丁目
河 川
大横川
構造形式
プラットトラス橋
架設年
昭和5年(1930)
備 考
江東区指定 都市景観重要建造物(2004)