• 300年の往来をつなぐ ─ 亀久橋
    Kamehisa-bashi BRDG, 1929

 ステンドグラスの赤や黄、オレンジに青といった極彩色の光を、亀の背中に乗るという古代思想の蓬莱山の理想郷とむすびつけるのは、飛躍のしすぎというものか。
 橋名は橋の南の位置に昭和15年(1940)まであった町、深川亀久かめひさ町に縁づく。アール・デコ調に装飾された親柱にはステンドグラスの照明が、またトラスに組んだ橋梁本体にも小型のステンドグラスの橋灯が歩道面と車道面の両側に取りつけられている。直感的にこれらの装飾デザインから蝉や甲虫類といった昆虫をまずイメージしてしまうのだが、橋名に亀の字がある以上、亀の甲羅をモチーフにした意匠と思いたい。歩道側の高欄にも橋灯とおなじような左右対称の図案が施されている。

 2004年に萬年橋、福壽橋、東富とうとみ橋とならび江東区が指定する都市景観重要建造物となった。イギリス人技師のJ.ワーレンが考案したという、トラス橋のなかでもワーレントラスと呼ばれる構造形式が採られていて、この構造はいまも世界じゅうで広く採用されている形式のひとつとされる。三角形状の骨組みで強度をたもち、細い部材でも橋脚なしで長く橋をわたせるため鋼材の節約と橋自身の軽量化を同時に実現できるから、関東大震災の復興橋にはあつらえ向きの工法だったのだろう。亀久橋の場合はトラスの両端を斜材ではなく垂直におさめ、三角形状の中央にも垂直材を通して補強している。

ステンドグラス照明がついた親柱。 S ≒ 1:30

橋灯(上)、歩道側高欄。 S ≒ 1:30

 現在の橋は昭和4年(1929)のものだが、復興橋としてあらたに架設された橋ではなく、江東区教育委員会の報告論文集『江東区の橋』(2009年)によると、創架年は不明ながら享保11年(1726)には架け替えの記録があるという。また東京市編の『東京市史稿』橋梁篇第一巻(1936〜1939年)にも、深川橋梁調査事蹟として〈築地平野町より亀久町に掛ル 一、亀久橋 長拾七間、幅三間。貳本立、六ヶ輪。關板。〉とする享保6年(1721)の「深川橋々見聞帳」の記載が収められている。幕府の払い下げを受けた埋立地に町割がされ、深川亀久町となったのが元禄16年(1703)。架け替え年までの間に最初の創架があったとして、亀久橋は古来から不老長寿の象徴とされてきた亀のごとく、江戸から約300年の人の往来をつなぐ橋といえる。

 橋の入口で幅員をつなぐ上横構うえよここうは開口部がアーチ状にとられ、橋門構きょうもんこうと呼ばれる部材で固定されているのだが、この部材に施されたデザインも山型を3つ連ねたもので亀の形を連想させなくもない。
 過度な華やかさではないにせよ、低予算で機能面重視のはずの復興橋になぜこれだけの装飾が必要だったか。その理由を考えながらひとつひとつ渡るのも深川周辺の堀や運河に架かる橋の魅力だ。

亀久橋

橋名板

亀久橋 / かめひさはし

所在地

江東区平野2丁目 ─ 冬木

河 川

仙台堀川

構造形式

ワーレントラス橋

架設年

昭和4年(1929)

備 考

江東区指定 都市景観重要建造物(2004)