深川に越してまだ日が浅い晩、仕事帰りに日本橋方面から歩いて首都高速下の隅田川大橋を渡るころ、通り雨に降られたことがあった。傘を持たず、濡れるのを避けてそのまま高速の高架下を行くと、道はやがて蛇行して油堀川の名がつくちいさな公園に出た。雨除けに歩いた道順が、油堀という堀割の川筋だったことをあらためて教えられた思いだった。
いま深川1丁目1番地にはビルが建ち、清澄通りと葛西橋通りの交差点に面した向かいは三角公園になっている。油堀川に架かっていた富岡橋の北の橋詰に続く区画で、昭和16年の「深川區詳細圖」を見ると東京市電の深川停留所がこの交差点に置かれている。
江戸の木材を集積し貯蔵する木場の役割を深川が担うようになったのは、江戸市中に起きた寛永18年の大火がきっかけというからおよそ370年まえのことになる。都市化がすすんだ日本橋や神田などに分散する材木商を、徳川3代将軍家光のとき川向こうに移住させて貯木場としたのがはじまりで、いまの佐賀、福住あたりに最初の木場が設けられた。約60年後の元禄の頃に木場は猿江へ移転、さらにいま地名として一般に馴染みのある木場へとまた移転したことで、初代木場のあたりは「元木場」と呼ばれるようになったらしいが、現在その地名は残っていない。ある晴れた休日に元木場と呼ばれた堀割の痕跡を訪ねて、福住1丁目から永代2丁目あたりをぶらぶらと歩いてみた。
福住1丁目の松の湯(現在は廃業)という銭湯のまえに五叉路があって、そこから大島川西支川に架かる御船橋にかけて狭く細長い区画がしばらく続く。堀割跡そのものが区画の形になって残ったのだろう、市街地で河川や堀が埋め立てられ、または暗渠となった場合、跡地の多くは道や公園となって残るが、そうならずに区画として痕跡をとどめている例もある。どのような経緯があったのか判然としないが、堀割そのものの形が区画となって残るのは、たとえば日本橋浜町の浜町川跡の緑道公園が久松町あたりに差しかかった先にも見られる。店々がぎっしりとひしめき中央に狭い路地を通したこの一画は、おもに東京駅周辺などの盛り場で露店を営んでいた人々が、戦後に川を埋め立てた土地に集まり商業地を形づくった場所だと聞いたことがある。つまり地権とは縁がないあたらしい土地だから、町の外部からの転入も容易だったということだろう。あるいは松の湯まえの五叉路から伸びた堀割跡の細長い区画も、もとはなにかそうした措置に由来する区画なのかもしれない。
江戸から明治にかけての地図をいくつか広げてみると、元木場と呼ばれた周辺に昭和2年架橋の御船橋は見あたらないかわり、松の湯まえの五叉路からのびた細長い区画にあたる場所には坂田橋、奥川橋といった橋の名が記されている。大島川西支川からは、いまの永代通りの方向へ数字の「7」に似た形をしながら堀割が伸びて、永代通りで八幡橋*をくぐった先は、大島川(現在の大横川下流)につながっている。数字の7の堀割の跡をたどって、さらに歩いてみることにする。
*八幡橋 … 深川でいま八幡橋といえば富岡八幡そばの八幡堀跡に架かる赤い鉄橋、旧弾正橋だが、これは昭和4年に宝町から移設されたもの。