• 京菓子司 壽堂S ≒ 1/300
    組み立て難易度✪✪✪✪

築 年

昭和初年

所在地

日本橋人形町2丁目

業種・用途

京菓子司 店舗兼工場

 木造モルタル塗りの3階家、ご存じ「丸焼き黄金芋」の壽堂のいまの建物が建てられたのは、関東大震災復興の昭和初年ごろ。正確な普請はさだかではないとのことだが、水天宮所蔵の昭和2年の写真にはすでにこの建物が写っている。
 大正から昭和のはじめにかけて、東京で一旗揚げるなら銀座か人形町といわれた繁華街のこの界隈に3階建ての店舗は珍しくなく、人形町の表通りに面した店の多くは早くから3階建てだった。

 店の2階と3階に工場を兼ね、早朝から職人が手際よく菓子を製造する。なかでも黄金芋は繁忙期に1日4,000本近い数をつくるという看板商品だ。鶏卵の黄身を極上丹波白小豆の白あんに混ぜて練った黄身あんを、小麦粉、鶏卵、砂糖をこねて薄く伸ばした皮で包む。素早い熟練技で紡錘つむ型に成形された黄金芋は、肉桂ニッキのなかにころがして総まぶしにし、真ん中を鉄串で刺して、特別の道具で300度の高温の天火に掛けられる。
 蛎殻町での創業が明治17年、現在地へは明治の末に移転した。黄金芋は明治30年代の考案品というが、その詳しい由来はわからないそうだ。

 幕末の都市風俗を図入りで詳細に伝える喜田川守貞の「守貞謾稿もりさだまんこう」には“○焼まるやき 薩摩芋”と書かれた焼き芋屋の掛け行灯の絵が出ていて、数えきれないほど盛んに売られていたとある。この黄金芋もそんな焼き芋人気に着目して考案された菓子なのかもしれない。
 品物を待つあいだ、お客ひとりひとりにすすめてくれる焙じ茶をいただきながら見まわす店の中は、70数年を経てほとんどの調度が普請当時のままだそうで、陳列棚の台座の大理石はチェコからの輸入品と聞いた。紺地に屋号と勾玉まがたまの商紋を白く染め抜いた、長暖簾を守る誇りが伝わってくる。

(月刊日本橋 2003年1月号附録)