• 木村湯S ≒ 1/300
    組み立て難易度✪✪✪✪✪

築 年

昭和5〜6年ごろ

所在地

日本橋蠣殻町1丁目 (※現存せず)

業種・用途

銭湯

 〝遠くの温泉より近くの銭湯〟とは、誰がいつごろから言いだしたものなのだろう。蠣殻町の木村湯へ向かう道を行くと、やがてそこだけけこんもりと樹木が茂るなか、築70年の出桁だしげた造のおおきな銅葺き屋根が見えてくる。
 東京都にある銭湯の数は最盛期だった昭和35〜6年ごろの3,000軒から、いまは23区と都下あわせて1,100軒ほどに減った。日本橋界隈には木村湯と人形町の世界湯の2軒が健在で、中央区では毎月第2金曜日を区内在住または在勤者は無料の「ふれあいデー」として、たとえば12月ならシクラメンの湯、1月は文旦ぼんたんの湯、2月は梅の湯と、季節感のある変わり湯を区内の銭湯で沸かしている。この日ばかりは最盛期さらながの賑わいをみせるそうだ。

*現在は小学生以下と敬老入浴証持参者をのぞいて1人100円。

 もともと銭湯のルーツは天正19年(1591)に、江戸の道三堀に架かっていた銭瓶ぜにがめ橋のたもとに開業した蒸気風呂屋とされる。一石橋から見て日本橋川が旧常磐橋のほうへと折れる先、現在の新日鐵のあたりだろうか。行政区分では千代田区になるけれど、日本橋発祥といっていい。
 江戸っ子は熱い湯を好むというが、ここの湯も三代にわたり熱めの43〜4度の温度がたもたれている。冬至のゆず湯は戦後いつの間にか立ち消えとなっていたものを、東京都の組合が音頭をとり、5月の菖蒲湯とともに20年ほどまえから復活させた。日本橋生まれで暦の会の会長でもいらっしゃる歴史学者の岡田芳朗氏は著書で、冬至にゆず湯にはいり南瓜を食べる習慣には、太陽の力がいちばん衰えるときに黄色いものを摂ることで、復活と無病息災を祈る意味あいがあるのではないかとしている。

 近隣には大型マンションがいくつも建ち、居住人口は増えたがマンション住人がそのまま銭湯の客となることは稀だ。燃料費に水道代、その他維持費等もふくめると、経営はけっして楽ではない。それでも「町の社交場」「子供の躾の役割」「癒し」など、ステレオタイプな表現だが銭湯といえばまず決まり文句のようにでてくる言葉がいくつもあるのは、ここが単に身体を洗うだけではない場所だから。おそらく自分の代で終わりだろうけれど、続けられるかぎりは銭湯を続けていきたいと、64歳になる三代目主人が話してくれた。

(月刊日本橋 2003年12月号附録)