• 伊勢利S ≒ 1/300
    組み立て難易度✪✪

築 年

大正13年ごろ

所在地

日本橋人形町2丁目 (※)

業種・用途

誂足袋店

※ 創作フレンチの店が屋号と建物を受け継ぎ2015年から営業。

 マンサード屋根のシャンバの建物について、いろいろ教えてくださったのが誂え足袋店の伊勢利ご主人だ。伊勢利は創業からおよそ110年、関東大震災後の区画整理によってできた店のまえの通り沿いで「昔からの商売をいまも続けているのはウチぐらい」とのこと。
 木造銅板張の3階家は震災直後の普請というから、大正13年ごろか。人も物資も混乱するなか、日本の木材が調達できずアメリカ産の米杉べいすぎ材を使い、京都からきた宮大工が建てたのだそうだ。

 人形町で誂え足袋の商売から連想するのはやはり、昭和のはじめに芸妓およそ650名をかかえ新橋、柳橋とならび隆盛をきわめた花街、芳町の存在だ。現在も組合が細々と残り、またお好焼 松浪の品書きにある「芳町やき」「浪花やき」や、ねぎ間鍋で知られるよし梅の芳町亭などに名をとどめるが、考現学者の今和次郎が編纂した『新版大東京案内』(ちくま学芸文庫/2001)から昭和4年の界隈の描写を引くと、

《これこそ、お江戸日本橋の心臓、今になつても純下町の空気が残ってゐるのはこゝくらゐのもの。(中略)昔ながらの面影が、まだ失はれずにゐる》

としながらも、

《人形町附近一帯は、いはゆる花街としての「よし町」で、蠣殻町、住吉町、浪花町、元大阪町、新芳町等々、一度たび横町へ入れば、料理店、芸者屋、待合が入り乱れてゐる地域である。
一巡してさてかへり見ると、カフエー、バア、モボ、モガ、所謂現代式ジヤズがいかに示威運動をしても、この土地ばかりは風馬牛ふうばぎゆうだと見えたものが、さすがに強烈な時代の潮に敵し得ず次第に浸潤されつゝある光景をしみじみ思ふ》

 人形町通りの裏手から浜町にかけて料亭や待合が入り乱れ散在した様は、そのまま伊勢利の足袋が日用品としてだけでなく、この町で生きる必需の品として愛用されていたであろう時代を彷彿させる。
 いま足袋を誂える顧客はおもに茶道や華道をたしなむような限られた女性客だけとなり、店では〝イセリトロフィー〟の看板をかかげてバッチやゴルフコンペの賞品につかわれるトロフィーも扱っている。

(月刊日本橋 2003年4月号附録)